ワークショップという名前
ワークショップ、と言われてもピンと来ない。
どうも「work=仕事(働く)」だと中学校の時に習ったせいかもしれない。
そんな自分でもマイクさん(https://www.facebook.com/pages/マイケルスペンサー/)のワークショップを受けた時には、「なるほどこれがワークか」という実感を得た。同時に、昔出会ったミスター・キーリーという男性の英国人を思い出した。
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中学生の頃、英会話のレッスンに週に一度通っていた。先生はミスター・キーリー。実は僕はその頃に「ワーク」を体験していたのだと思う。よくチームに分かれてグループワークをした。英語のタンゴのカードを並べて文章を作ったり、画が描かれたカードの英単語をひとりひとり交代で言う、というような、ある意味でゲームのようなものだった。
しかし、このゲームはどれもよく考えられていて、個の力だけでなく、グループがまとまってレベルをあげないと他のチームに勝てないようになっている。するとお互いに教え合う。次の問題では教える側と教わる側が入れ替わったりして。これをグループ対抗で行う。
A,B,Cの3つのチームが競っていてAが先に終わるとミスター・キーリーはグミやチョコをくれた。Which one would you like, gumi or chocolate?なんて。Aの子たちは順番にI’d like gumi, please.なんて答えて行く。これは状況とセンテンスのレッスン(笑)
Aのチームの子たちに聞き終わると、ワークの続きをする。最後の子たちが終わるまでやめない。それが競技などとは違うところだ。順位付けがすめば終わり、ではない。全ての子が自分で答えを導くまで続けるのだ。既に終わったチームの子も、ヒントを出そうとしたり、次の質問のヒントかもしれないとミスター・キーリーの言うことにじっと聞き入る。
次にbグループが終わるとミスター・キーリーは、bグループの子に、順番にWhich one…と質問する。先に終わった子たちと同様に。自ら答えを出したご褒美だったんだろう。早く終わっても遅く終わっても同じ。でも子どもは先にもらえた方が良いから、がんばる。すごくいいインセンティブだった。
他の人任せにしない、ヒントをもらうことはある、でも最終的に自分の責任で回答(考え)を言う。早く終わっても遅く終わっても、自分で答えを導くのが大事。
これが僕のワークの原点だったと思う。
マイクさんのワークはこの体験を思い出させてくれたのだ。
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日本ではいわゆる「レッスン」を「ワークショップ」と呼ぶことも多い。
何故だかは知らないけれど、でも「〇〇のレッスン」より「〇〇のワークショップ」といった方が、気軽に参加出来そうだからではないか、と思っている。ほら、レッスンってお稽古ごとで週に何回、とかずっと通わなければいけなさそうだから・・。
演劇にしても、音楽にしても、ダンスにしても、クラフトにしても、ワークショップと名のつくものは巷にあふれている。
しかし、自分の中では「先生」が「生徒」に「教える」形のものはレッスンだと思っている。
先生が「形」のあるもの/ことを「直接的に」教え、伝えるのが「レッスン」なら、ファシリテーターがみんなから引き出して、導いて、「一緒に」形作るのがワークショップだと考えている。
「最終的に出来た形」を大切にするのがレッスン(=授業)。その「過程」や「やり方」を大切にするのがワークだとも思う。
噛まずに飲み込んで、それを再現してもOKなのがレッスン。噛み砕いて、違う形にしてしまったとしても、自分なりの噛み砕き方を会得したらOKなのがワーク。
もし、自分が小学生向けのワークショップを自治体職員に話すならば・・・
「今までのワークショップは、ある音楽を子供達が上手に再現しようとしたら成功だけれど(レッスンだから)、
自分がやりたいワークは、子供達がその音楽を一緒に聴いた仲間と、『自分はこう感じた(意思の発信)』、『そうなんだ(合意)、私はこう思った。』というやりとりをして、「自分ならこうしてみる」と言って、実際に話し合いをしながら何かを作り上げて行くワークを行えれば成果ありと考えています。」
「例えばそのワークショップの目的(解決したい課題)によっては、音楽でなく、ダンスかもしれないし、美術や演劇、クラフトかも知れないです。でもワークショップはみんなで「ワーク」をする場所にしたい、と考えています。」
これが今の自分の回答です。これは解答ではありません。数学のように正解(正しい「解」)はないと思うのです。